で?っていう備忘録

再開です。

Voice Band、「ぱーぱぱぱー」、寝不足な目つき。

すげぇ。



「誰でも曲作りが手軽にできるよ!」とか
「海岸線を歩いてるときにふと浮かんだフレーズをすぐにメモれるよ!」とか
「鼻歌が楽曲に早変わり!」とかが利点か。
技術的にめちゃめちゃ革新的なのは素人目にもわかる。


ただ、生活のインフラにもならんだろうし毎週末の趣味にもならんだろうし、
「子どものおもちゃ」として買われるのかなぁあの銀色の犬みたいに、とも思う。


演奏者(「ぱーぱぱー」って歌う人)が複数いたらぷちオーケストラみたくなる。
「ぱーぱぱー」の人が世界各国にいたら連歌会・リレー小説みたいなことも即興で出来るか。

 フランス(ギター)
→アメリカ(ベース)
→ブラジル(パーカス)
→中国(ボーカル)
→日本の渋谷某所で演奏

なんてことも出来るか。面白いのかどうか、音楽的に価値があるかはわからんけど。
ともあれ、ヴォーカロイドとかみたく、同人音楽をやりやすくするだろうな。
初音ミクが出てきた時みたいに、パフュームが出てきた時みたいに、
実体として存在しないバンドを作って売り出すとかもできる。band of emptyとか言って。
それまでの音楽作成ソフトとのいちばんの違いはなんだろう?手軽さ?


こういうのを見るとやっぱり小説のことを考えてしまうのはもはや職業病。
たとえば中世ヨーロッパにおける教会音楽業界への参入障壁が、
とりもなおさず「教会でしかピアノが弾けない」ことだったとすれば、
その時代、演奏家になるにはとてつもない苦労が必要だったんだろう(政治的にも、技術的にも)。
筆と硯と紙を自由に使えることは、平安〜鎌倉期には大きな文化的財産で、
もちろん上流貴族に独占されてて、「文化」といえば金持ちの風流で、
その時代の「庶民文化」はもっぱら手や口や足を使ってするものだった。
定家が当時の古典を大量に集めて大量に複写・管理できたのは、彼が「いいとこのぼっちゃん」だったからだ。


いまやケータイは一人一台、パソコンは一室に一台置かれるみたいな家もざら。
「ケータイ小説」の膨大な作品数は、デバイス面での小説界への参入障壁が
ほぼ皆無になったということを示している。
このあいだすばる文学賞をもらった『灰色猫のフィルム』(天埜裕文)は、
なによりこの参入障壁の消滅を語る事例として、
もっと注目されていいと思う。小説としてもなかなか読ませる。


で、デバイス面での参入障壁が今後まぁほぼ皆無になったとして、どうなるか、
すべての小説が等しく読まれ・書かれる時代が来るのかというと、そうではないだろう。
これまで以上にソフト面の質が求められるようになり、
参入障壁をめぐる主戦場は製作技術、メディア維持、マーケティング、の場に移行するのだろう。


「好い音楽を作る」が以前よりさらにシビアに求められるようになり、
「好い音楽とはたとえばどれか」という前提を共有する「場」を育て、養い、維持しなくてはならず、
「好い音楽と悪い音楽の聞き分け方」を明晰に語れなくてはならなくなる。
「方法」の「言語化」が急がれる。
となると、「方法の言語化」の質・量・技術も問われるようになり、
「方法」が「芸術」になるのもそう遠くはないのかもしれない。


「既製品」が「芸術」になったのはいまからもう80年も前だ(マルセル・デュシャン)。
「商品」と「芸術」がしのぎを削ったのはもう40年も前のことだ(アンディ・ウォーホル)。
「方法」と「芸術」とのあいだの戦いが量としても質としても拡大するのかもしれぬ。


あるいは、「専門性が求められる高度な技術」が陳腐化するのかもしれぬ。
サイレント→トーキーになって活弁士がほぼ全滅したように、
大英帝国で紡績業の機械化にキレた手作り職人たちが大暴れした時みたいに、
茶道や書道や俳句の現在みたいに、
手仕事で良作を寡作する小説家の「席数」がますます減って、職人化して、
ハイブロウでニッチな人にしか好まれなくなる。
コンテンツ辺りの単価が上がって、「ユーザー」になること自体が価値になって……


……やめよ。地滑り的に空想を駆動させても現実味がない。